2026年現在の武道・格闘技界において、かつてのフルコンタクト空手が築き上げてきた歴史を語る上で欠かすことのできないレジェンドがいます。それが「極真の龍」や「天才」の異名で知られた空手家・山崎照朝です。類まれな切れ味鋭い技と、自らは傷を負わずに対戦相手を圧倒する独自のファイティングスタイルは、空手界のみならずキックボクシング界からも幻の名選手と評され、異なる格闘技の領域で一時代を築き上げました。
選手としての第一線を退いた後は、中日スポーツや東京中日スポーツの格闘技評論家・ジャーナリストとして健筆を振るう一方、ボランティアとして後進の指導に尽力するなど、その生き様自体が生ける伝説となっています。本記事では、公式なファクトや歴史的記録に基づき、山崎照朝の激動の経歴、全日本選手権における名勝負の数々、そして格闘技界に残した不滅の功績とその現在に至るまでを徹底的に紐解いていきます。
「極真の龍」山崎照朝とは?その圧倒的な経歴と格闘技界での軌跡

山崎照朝は1947年7月31日生まれ、身長177cm、体重62kgというスマートな体躯でありながら、フルコンタクト空手界において「一つの理想的な組手」を体現した歴史的な空手家です。空手道段位は七段を有し、その名はアメリカ合衆国の著名な武道雑誌『ブラックベルト』にも深く刻まれています。
特筆すべきは、真剣を思わせるような鋭い切れ味の技の数々です。自らは相手の攻撃を受けずに正確に急所を捉えるファイトスタイルは、極真会館出身者としての枠を超え、キックボクシングのリングでも「幻の名選手」として恐れられるほどの衝撃を与えました。大山倍達という偉大な創始者のもとで厳しい稽古に耐え抜き、圧倒的な強さと美しさを兼ね備えた組手で昭和の格闘技黄金期を駆け抜けました。
国賓をも驚嘆させた圧倒的実力:若き日の国際的エピソード
山崎照朝の全盛期における実力は、国内の大会にとどまらず、海外の要人をも魅了しました。1970年6月14日、ヨルダンのフセイン1世の妻であるムナ王妃やフェリアール王弟妃一行が来日した際、極真会館は滞在先の東京ヒルトンホテルで演武会を催しました。その席で披露された山崎照朝と添野義二による組手を観た王室一行は、その凄まじい実力と圧倒的な迫力に深く驚嘆したと伝えられています。
さらに1972年2月には、空手を習っていたスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日。極真会館副会長の毛利松平の仲立ちにより、赤坂の迎賓館で大山倍達率いる精鋭メンバーによる演武会が開催されました。この歴史的な舞台では、第1回全日本選手権チャンピオンであった山崎照朝と、第3回チャンピオンの佐藤勝昭による模範試合が行われ、世界の要人たちの前で極真空手の真髄が余すところなく披露されました。
第2回全日本空手道選手権大会の激闘と伝説の名勝負
山崎照朝の競技人生においてハイライトの一つとなるのが、1970年に開催された第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会です。この大会の決勝リーグは、山崎照朝、添野義二、長谷川一幸という、極真史上に残る強豪三者による伝説的な総当たり戦となりました。
特に山崎と添野の対戦は、回し蹴りと突きが激しく交錯する息を呑む攻防戦となりました。2回の延長戦を含めて実に6分間にも及ぶ死闘の末、山崎が下段逆突きを鮮やかに決めて添野を下しました。その後に行われた長谷川一幸との対戦では、試合開始から約20秒が経過し、山崎が間合いを詰めてすり寄った瞬間、長谷川が巧みに絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め、「一本」となり山崎は敗北を喫しました。結果として長谷川が優勝、山崎は準優勝となりましたが、この歴史的な三者の激闘は今なおファン語り草となっています。
| 時期・大会名 | 対戦カード・主な出来事 | 結果・特記事項 |
|---|---|---|
| 1970年6月14日 | ヨルダン王妃一行の前での演武会(東京ヒルトンホテル) | 添野義二との組手を披露し、王室一行を驚嘆させる。 |
| 1970年(第2回全日本選手権) | 決勝リーグ:山崎照朝 vs 添野義二 | 2回の延長戦(計6分)の末、下段逆突きで山崎が勝利。 |
| 1970年(第2回全日本選手権) | 決勝リーグ:山崎照朝 vs 長谷川一幸 | 試合開始約20秒、長谷川の下段正拳突きで山崎が一本負け(準優勝)。 |
| 1972年2月21日 | スペイン・カルロス皇太子夫妻臨席の演武会(赤坂迎賓館) | 佐藤勝昭との模範試合を実施し、国賓の前で極真の技を披露。 |
選手からジャーナリスト、そしてボランティア指導者への道
第一線から退いた後の山崎照朝は、自身のキャリアの軸足をジャーナリズムと後進の育成へと移行させました。本業である新聞記者(中日スポーツおよび東京中日スポーツ)として、格闘技評論家・ジャーナリストの第一人者として活動を続け、冷静かつ深い洞察に満ちた視点で格闘技界の変遷を見つめ、伝え続けました。
武道指導においては、大山倍達から受け継いだ本物の空手を生活の糧にするのではなく、場所代など最低限の経費を除いては一切の月謝を取らない「ボランティア指導」のスタイルを貫きました。近所の子供たちや山崎を慕って集まる人たちに対し、無償の愛をもって空手の技術と精神を教え続けました。1995年には風林火山から国際武道空手連盟・逆真会館として正式に一流派が発足しましたが、その運営形態や指導にかける純粋な姿勢が変わることはありませんでした。さらに2011年8月からは、指導者のみを対象とした空手研究会へと活動を移行し、日本の武道文化の奥底を支え続けました。
【山崎照朝】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:山崎照朝の異名「極真の龍」の由来は何ですか?
A1:真剣のように切れ味鋭い技を持ち、自らは無傷のまま対戦相手を圧倒する優雅かつ圧倒的なファイティングスタイルから、そのように称されるようになりました。
Q2:山崎照朝は空手以外にどのような競技で実績を残しましたか?
A2:フルコンタクト空手での圧倒的な実績に加え、その優れた打撃技術とファイティングセンスからキックボクシングのリングでも「幻の名選手」として高く評価されました。
Q3:選手引退後はどのような活動をしていましたか?
A3:中日スポーツ等の格闘技評論家・ジャーナリストとして執筆活動を行う一方、ボランティアとして長年子どもたちや後進に空手を指導し続けました。
2025年6月22日に波乱に満ちた生涯を閉じた山崎照朝は、昭和から平成、そして現代に至る日本の格闘技史において、技術の美しさと武道の精神性を高次元で両立させた稀代の武道家でした。大山倍達のもとで極真会館の黄金期を支え、数々の国賓の前でその技を実演し、リングの外部では客観的な視点を持つジャーナリストとして格闘技の発展に寄与しました。
何よりも、利益を追わずボランティア精神で次世代に本物の空手を伝え続けたその姿勢は、効率や商業主義が優先されがちな現代のスポーツ・武道界において、大きな示唆を与えてくれます。「極真の龍」が残した気高い足跡と武道家としての矜持は、これからも多くの人々の記憶と日本の格闘技の歴史の中に深く刻み続けられていくでしょう。